民俗文化論 
課題テキストの図版「気をつけの姿勢をする長崎の被爆少年」を考察する


 「もはや戦後ではない」と謳われた年の暮れに生まれた私にとって、軍国主義や戦時教育 は遠い存在であった。むしろ存在自体が隠蔽されていたという方が近いかもしれない。平和 教育を受けたという記憶も特にない。高度成長期の真っただ中であった私の小学校時代、 教師たちは戦争について語る言葉をもたないという感じであった。
 そのような私であるが、「気をつけの姿勢をする長崎の被爆少年」の写真を見て、最初の 一瞥による衝撃と感傷が去った後に思い出したことがあった。それは、少年の指を揃えてピ ンと伸ばした手、つま先を開けてかかとをぴったり合わせた足、不必要なほどきりりと結ばれ た口から思いがけず甦った記憶である。
 私は’60年代半ば、地方の国立大教育学部の付属小学校に通っていた。そこは県の小学 校教育の研究モデル校の機能を果たしていたらしく、たくさんの教育関係者が事あるごとに 視察に来ていた。そのような事情が関係していたと思うのだが、高学年の頃に次のようなこ とがあった。
 運動会間近のある日、体育教師が私たちに向かって、ラジオ体操のやり方がまるでなって いないと説教をした。そして、「ラジオ体操第一」の型をはじめから、ひとつずつ熱心に教え出 したのである。それはつま先の開きの角度、両手の親指の位置に始まり、目は何処を見る か、そのとき肘はどうなっているべきか等など実に細かく、異様とも思える熱意をもって延々 と続いた。当時は今と比較して、大人や教師の権威が格段に有効であったから、不満を口 にするなど思いもよらなかった。体育教師の異様さに対する一抹の不安と、じりじり照りつけ る太陽に、はじめは苦痛でしかなかったラジオ体操の型をなぞる動作が、驚いたことにいつ しか清々しいような気持ち良さを感じるものになったのである。それ以後、私はそれ以外の やり方で「ラジオ体操第一」をすることはなかった。 
 この経験は、「戦争を知らない子どもたち」世代である私なりの、「命令(号令)に服従して画 一的な行動を遂行する身体へと鋳直された」経験である。この話には後日談があり、それか ら25年ほど経た1990年代、自分の娘や息子たちが小学生になり、保護者として再び「ラジオ 体操第一」をする機会が巡ってきた。そんなとき私はいつも、あの日に叩き込まれた型のひ とつひとつを、自分の手足や指先が忘れていないことに驚嘆したのである。
 以上が、長崎の少年の写真を見て、その身体とスタイルから甦った私自身の身体の記憶 である。死んでしまった赤ん坊の弟を背負い、気をつけの姿勢をする少年の写真を前にし て、現在からの視線で衝撃を受け軍国主義に憤りを感じるのは簡単である。しかし、この少 年は、この場合これより他にとるべき姿勢をもたなかったのだという状況を無条件に受け入 れるべきではないかと感じた。少年の気をつけの姿勢、また涙も流さない無感動な様子に は、文化的・思想的な意味は何も含まれないと思う。意味は、アメリカ軍兵士や私たち戦後 の人間など、別の社会あるいは世界に生きる者が感じる<ずれ>に生じるのであって、少年 にとっては、背中の赤ん坊の死と同様、その時の精一杯の現実であったのだ。
 このレポートを書くにあたり、『子どもたちの昭和史』(大月書店、1984)という写真集で、あら ためて多くの戦時下の写真を見た。そこには、雑誌、映画、玩具に及ぶまで、あらゆるメディ アが戦争を鼓舞し、学校教育も同様であった様がまざまざと写し出されている。「爆弾三勇 士」という運動会種目に象徴されるように戦死までもが賛美され、国のため天皇のために死 ぬことを目指すという異様な体制の中で、それらの写真にある人々や子どもたちの表情が 悲痛なものばかりではなく、ときに楽しげ嬉しげな顔も見られることに衝撃を受けた。それら の状況が決して特異なものでなく、人々の共通の日常であったことを思い知らされたからで ある。
 1960年代、子どもの私にとって、戦争は叱られるときに決まって持ち出される話の種に過 ぎなかった。戦争を経験していないのは自分のせいではないのに、あれこれとなじられ、そう いった意味で私は戦争が大嫌いであった。戦後の幸せな時期に生まれたなどと、自分では 全く思いもよらなかった。友人たちが持っているバービー人形を自分だけ買ってもらえないこ とで、いつ仲間はずれにされるかと毎日怯え、また隠してある悪い点のテストを、学校に行っ ている間に母に見つかりはしないかなど、心配事、苦悩はいくらでもあった。
 子どもはいつでも驚くほど世界が狭く、情報量が少ない。近代以降、学校と家庭にのみ居 場所を狭められた子どもは、親、学校の教師、友人、それがすべてである。それらの限られ た人間関係のなかで認められ、居場所を見つけなければアウトなのだ。
 そして子どもは常に受身である。自分の置かれた状況から離れた、別の価値観を身につ ける力を持たないのである。昨今急増した親による幼児虐待の被虐児が、行政の力で保護 されたにもかかわらず親の元に帰りたがるという話を読んだり、写真集で戦後の浮浪児狩り にあった子どもが抵抗する映像を見たりするたびに、子どもというものがいかに情報量の少 ない、選択の余地のない存在かということを思い知らされる。15章の図版「身体とスタイル」 のなかにある、身売りされた農村の少女たちの前列右端の子が笑っているのもそうである。 死んだ弟を背負いつつも、ぴんと背筋を伸ばして気をつけの姿勢をしている少年もそうなの だ。それらは全て各々の子の、それぞれの社会的世界の限界なのである。
 戦時下の子どもたちの写真に散見される楽しげな顔にも、私自身の小学校時代のラジオ 体操の思い出が重なる。逃れられない日常ならば、社会的世界に疑いを抱かずに従う方が 楽である。根本的疑問を打ち消し、不満をもたず、反対に快感を覚えるまでに自分を作り変 えることは、社会的世界全般を敵に回さなくて済むという究極の選択なのではないだろうか。 これも子どもながらの民俗の知とはいえないだろうか。
 民俗の知とは、どのような状況においても自らを生き易くするための本能的な知恵のことで はないだろうか。テキストを通読し、12章の「冥界の結婚式」に特に強い感銘を受けたが、こ れもまた、人形の「からだ」を借りて、死者と、残された者たちの「こころ」を同時に慰めるとい う、まことにすぐれた民俗の知であると思う。
 テキストでは、「意味世界とプラクティス(慣習的実践)を接合するものとして、“民俗の知”が ある」と記述されている。これを私は、ある集団の価値観に合わせて生きることで、とるべき スタイル(姿勢や身体の動かし方)がおのずと決まり、個として迷わずに済むというように拡大 解釈した。「身体とスタイル」の図版の、さまざまな職業の人々の写真を見てそう考えたので ある。
 さまざまな価値観が錯綜し、社会的世界が幾層にも折り重なり、その多くは行き止まりにな っているような現代において、長崎の少年をはじめ彼らの姿から考えるべきことは多い。
                                
 
 
 【参考文献】
 川村邦光『民俗文化論』テキスト(京都造形芸術大学、2000年)
 『写真集・子供たちの昭和史』(子どもたちの昭和史編集委員会編、大月書店、1984年)
 
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