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「イメージ」と「アート」の関係について特に関心を覚えた箇所
を例に挙げ、自分の考えを述べる
テキストを読み、「イメージ」と「アート」の関係について特に関心を覚えた箇所は、グス
ターフ・ブリッチュの「殴り描き」論である。芸術やアートに関心をもち、惹かれる作品に出
逢うこと、また自分でも作り出すことに悦びを見出してきた自分の半生を振り返り、表現
やアートのはじまりや入り口という興味深い問題を、これまで深く考えたことがなかったと
気づいた。
ブリッチュによれば、アートの入り口は「イメージの構造化」であり、その根底にあるの
はイメージ(A)とその背景(U)とのA−U関係である。これほど明快にアートや表現、あるい
は芸術という営みの根本的なしくみを言い表したことばに出会ったのは初めてである。ま
た、このブリッチュの論は、私なりの「アートの入り口」の体験を思い出させてくれるもので
もあった。
それは15歳の時、中学校の美術の教科書でダリの『記憶の固執』、あの柔らかい時計
の絵に初めて出会い衝撃を受けた頃のことである。理由もわからぬまま強烈な魅力に引
き寄せられ、ダリの画集に没頭し、更にはマグリット、デルヴォー、エルンスト、タンギーと
関心が果てしなく広がる一方で、私はダリのような絵を自分でも描きたいと願った。
それは大変な難問だった。ダリの絵は、その新奇なモチーフとは裏腹に徹底した古典
的技法に依っている。知識も手段もなく、学校で絵を褒められたことさえ一度もなかった
当時の私にとって、ダリの広漠とした風景の描写技術は魔術的にも感じられ、そのような
空間を自らの手で生み出すなど決して叶わぬ願いとも思われた。
しかし、そのうちあることが起こった。授業中もダリの絵に思いを馳せ、ノートの余白に
いたずら描きを繰り返していた私は、無造作にひいた一本の横線を地平線として見るこ
とができるようになったのだ。鉛筆でさっとひいただけの横線を地平線として見るとはど
のようなことか。それはその横線の上下に渡る一定範囲が、突如、三次元と化し、限りな
く奥に遠のいて見えるということである。その面は確かにノートという物の一部なのだが、
同時に茫洋とした空間風景であり、横線より上の部分は空、下の部分は大地として私に
働きかけるのである。そこに、ダリが遠景に描き入れるようなシルエットだけの人物と、そ
の長く伸びる影などを描き加えることによって、当時の私はかなりの満足感を得た。それ
はまさしく「イメージの構造化」のはじまりにあり、一種の能力を獲得したことによる悦び
だったのではないだろうか。
この一連の経験は、ブリッチュの論に重ね合わせ、さまざまに考察することができる。
ブリッチュは、「イメージの構造化」を「視覚体験の精神的加工」であるという。これについ
て考えてみたい。まず視覚体験ということばであるが、日本の都市部に生まれ育った私
は、茫洋とした地平というものを実際には体験したことはない。この場合の私の視覚体
験はダリの絵画空間を媒体としたものであった。しかし、私はその絵画空間を決して虚
構空間として受容したのではない。
今年、国立近代美術館で「地平線の夢−昭和10年代の幻想絵画」という展覧会を見
た。幻想や心象風景において地平線が果たす役割がさまざまに興味深かったが、特に
強く覚えたのは、明らかにダリの影響下に描かれた幻想風景画への共感だった。1930
年代に描かれたそれらの絵の地平空間は、厳しさを増す戦時社会の重圧からの自己解
放のように思われ、そこにダリに夢中になった頃の自分の思春期が重なった。「もはや
戦後ではない」と謳われた年に生まれたとはいえ、高度経済成長期の学歴偏重主義と、
何事においても支配的な家庭環境の下にあった私の子ども時代は、決して心休まるもの
ではなかった。自分の置かれた社会の価値観を否定するすべもなく、苦痛を感じていた
状態であったからこそ、ダリの絵は救いの空間となったのだろう。私がダリの絵に見たも
のは、何よりも、社会の対極としての世界であった。それは未知ではあるが私を自由に
歩きまわらせてくれ、支配や競争、また社会の価値観といったものの対極にある空間で
あった。長くのびた地平線のイメージとは、そのような静謐な空間を保証してくれる存在と
して、時代を越え、私たち人間に働きかけるものなのだろう。
当時、このような切実さとともに受容した絵画空間の数々、ダリをはじめとするシュルレ
アリスム絵画の視覚体験は、私にとってまさしく強烈な現実体験であり、原風景とも言え
るものである。では、ブリッチュが言う「視覚体験の精神的加工」ということばに戻り、私
のこの視覚体験を精神的に加工するとはどういうことだったのかを考えてみたい。
ブリッチュは、子どもの「単なる筋肉運動の痕跡としての殴り描き」と「表現としての殴り
描き」を区別して捉え、一見同じようであっても両者の間には断絶があると指摘した。そ
の断絶は、子どもがあるとき突然獲得する能力の有無による。私はこの能力に二つの
側面があると考えた。ひとつは何ものかを念頭において実際に描く行為としての能力、も
うひとつは逆にイメージを概念に結び付けて読みとる能力だ。読みとるとは、そのものと
して見るということであり、これら表裏の能力によって、はじめて「イメージの構造化」は実
現するのだと思う。
ここで、精神に対するものとして身体ということばを使うならば、「精神的加工」の他に
「身体的加工」というものが考えられる。私は上述した能力の二側面のうち、実際に描く
能力が「身体的加工」であり、他方、イメージを概念に結び付けて読む能力こそが「精神
的加工」なのではないかと考えた。テキストにある、<わたしとお母ちゃま>と題された女
児の絵を見ると、「精神的加工」という語が必然性をもって迫ってくる。ぐるぐると一見乱
暴に描かれた線のかたまりが、つけられた題名とかけ離れたものに見えるからこそ、「精
神的加工」という人間特有の能力の重要性に思い至るのである。
鉛筆で描かれた横線が地平線に見えるようになった私の体験にもまた、女児の絵と同
様な「精神的加工」、イメージをある概念と結び付ける能力の獲得があったのだ。それ
は、ちょうど同じ時期のもうひとつの記憶、壁のしみに色々なイメージを見ることとも深く
関わっている。しみがさまざまなものに見えることは、自分で描く「身体的加工」は抜け落
ちているにせよ、やはり「視覚体験の精神的加工」として、アートの入り口に立つ行為で
あると思われる。
ブリッチュが指摘したもう一つの重要点、イメージ(A)と背景(U)とのA−U関係について
も考えてみたい。横線を地平線(A)と捉えたことで、その上下に渡るノートのある範囲が
背景(U)として奥に遠のく。しかし、その上下の余白は単に後景として線の奥にだけ存在
するのではない。地平線とそれを見る私との間にある空間、空気のようなものとしても働
くのだ。線と余白とのA−U関係は逆転しつつひとつの空間を作り、そこに人物など他の
ものが描き足されると、関係性を保ったまま共に新たな(U)となる。「一つの意識されたも
のの実現が、初めて次に意識されるものを可能にする」とはブリッチュの言葉だが、A−
U関係はどれほど増殖し細分化されようとも、その基本の力を失うことはない。息をのむ
ような迫真性をもって描かれた17世紀オランダの静物画も、その私たちを驚かせるあり
ありとした空間は、丁寧に選び取られたA−U関係が幾重にも作用し合うことによって実
現しているのではないだろうか。
ノートの余白の地平線から長い時を経て、私はその後、アートに関するさまざまな手法
を身につけた。それら全ての根幹にあって、表現を可能にするものこそ、イメージ(A)と背
景(U)とのA−U関係であった。今さらのように深く納得する次第である。
すべての「イメージ」は、このA−U関係を下敷きに身体的・精神的に加工を施され、「ア
ート」へと構造化される。この関係の内在的理解を幼児期のあるとき獲得した人間は、誰
もがアートの入り口に立っているといえるだろう。
《参考文献》
岩城見一 『美学概論―感性論としての美学の今日的課題―』
(京都造形芸術大学、2001年)
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