Aestheticsを「感性論」として考察し直すことの意味について、
経験に照らし合わせ、考えを述べる
 
 
 テキストを読み、強く思いあたる経験があった。
 私は子どもの頃から、天井や壁のしみが何かに見えることをおもしろく思っていたが、特 に、高校時代の通学駅での、向かいのホーム下のコンクリート面をなつかしく思い出す。そ れはちょうど、シュルレアリズムに興味をもつようになった頃で、衝撃的なダリの広漠とした 風景や、エルンストの不可思議な哲学的コラージュに悦びを見出した時期でもあった。雨 水によって大小の濃淡がつき、打ちっぱなしで煤け汚れたそのコンクリートの壁面には、 目を凝らす間もなくさまざまなものがたち現れ、それはどこかダリによって描かれた人物の ようであったり、なにか宗教画のようであったりした。友達と笑いさざめきながら帰る時はた だの壁であるものが、たまたまひとりになった時には必ずスクリーンと化した。たしかに言 えることは、私はいつもそれらに美的な悦びを感じていたということである。
 今考えればこの思い出は、イメージやアート、あるいは美といったものの不思議に、初め て直接触れた経験かもしれない。壁のしみを見ることは現在でも私の楽しみである。
 さて、私は今までこの現象を、自分の精神のうちにある無限の自由のあらわれだと思っ ていた。しかしテキストを読み、今回気づいたことは、いかに自由に感性を遊ばせようとも、 知り得ないイメージは決して現れないのではないだろうかということである。
 こう思い至った後に、あらためて手近の壁を眺めてみた。そこで気づいたのは、私が壁 のしみに見えるものは、必ずこういうものが見えると、誰かに言葉で伝えることが可能だと いうことだ。例を挙げれば、「暗がりからレンブラントの絵のように人物が浮かび上がって いる」、「イコンの聖人のような5人が扇形に並んでいる」、あるいは「海辺に漁師のような 人影が見え、遠方には巨人がいる」等など。また通学駅のホームの特に好きだった箇所を 見るとき、「ああ、これは最後の晩餐だ」といつも考えていたことも思い出した。
 「○○だ」という場合と「○○のようだ」という場合とがあるが、いかなるときも言葉で伝え ることが、かなりの程度まで可能なのである。これはどういうことなのだろう。
 もしかすると、イメージとは、必ず名づけられているものなのではないだろうか。今まで、 私は言語と視覚的イメージとを対比させて考えることが多かった。言語はロゴス、論理に属 し、視覚的イメージはパトス、感性的なものと捉え、有限な言語に対して無限なイメージ(像) を優位に捉えていた。しかし、今回テキストを読み、言語のもつ枠組みとしての強い力は、 イメージに劣らず大きな支配力をもっていたことを知った。
 「意識への言語の浸透は、すでに今日の思想にとっては自明の前提になっており、言語 に汚染されない意識を考えるのは、いわば余りに素朴な理論だということになる」 (p.217)  
 例えば、ある絵を見たときに昔読んだ小説を連想するというような経験は、どのように考 えたらよいのだろう。そのような場合、視覚的イメージと言語は差異を超えて、なにかしら 共通する意味内容をもつものとしてつながっている。このことから再確認できることは、言 語とイメージは、記号という役割をともに果たしているということだ。
 また、こうも考えられる。受容の際には言語であった小説が、時とともに記憶のなかでぼ んやりとした映像に変化したのではないだろうか。あるいは両者はともに、身体の記憶とし て残っているのではないだろうか。記憶とは、言葉とも像ともつかない形でしまい込まれ、 身体を介して甦ってくるものかもしれない。
 イメージと言語についてさらに考えると、日常において、言葉で聞いたり読んだりした内容 を絵に表すことが可能なことに思いあたる。また、絵などの視覚的イメージを言葉で説明す ることは、芸術学を学ぶうちに親しい行為となっている。日常の意識下の行為としてこれら が可能なのであるから、人間の精神には無意識のうちにも両者を変換できる機能が備わ っているのではないだろうか。そうだとしたら、人間の経験はとても大きく広がる。言語とイ メージ、この両者は相対立するものではないのかもしれない。そして、私が壁のしみに見る ものには、像としての記憶のほかに言葉の記憶も混在しているのかもしれない。
 さて、私は次の疑問を念頭におきながら、テキストを読み進めた。すなわち、壁のしみに 美しいイメージが見えること、これを私の「表現行為」と考えてもよいものだろうか。
 第一に、これは「手」による「制作」ではなく、「眼」と「思考」による「発見」だといえる。そし て、他者と共有することができないという点においては夢や幻覚と同等である。
 私が壁のしみにイメージを読みとる際に重要なものは、線ではなく単色面の濃淡である。 それは、テキストの記述にある「アートという技術において働く、前景(A)と背景(U)との何重 もの関係からなる論理」に従って像を結ぶ。
 またイメージは、ある視点では人物の身体の一部であった箇所が、視線をわずかにずら しただけで新たに浮かび上がる獣の影になるというようにお互いに重複している。そこに浮 かび上がるさまざまなイメージは、「絶えず生成しては消えてゆく、私たちの現実世界」のよ うだとも思え、ある範囲をとらえてなにものかを瞬時に形づくり、そこに美や崇高を感じるこ とはアートの行為と考えてもよいのではないだろうかと思えてくる。
 しみを見てからイメージが見えるまでを、さらに詳しくたどってみると、次のことがわかっ た。しみに視線を合わせると、濃淡がぼんやりと古いモノクロ写真のような像を結び、「○ ○のようだ」と感じた瞬間にそれ以外のものには見えなくなる。その、自分が感じたのか考 えたのかも定かではない瞬間があまりにも一瞬のうちなので、イメージが向こうから勝手に やってきたと思ってしまうほどなのである。しかし私は、この一瞬に言葉が全く関与していな いとは言えないことに今回気づいた。
 私は今まで、自分は壁のしみにありとあらゆるものを見ることができると思っていた。自 分が経験したことのない事物でさえも自由に出現させることができるという、人間の精神の 無限の可能性を信じていたのだが、例え出現したとしても自分が名指せないことには全く 無意味なのだということに気づいた。それは言葉によって名指すのと同様に、イメージによ っても名指すということだ。イメージによって名指すとは、すなわち感じるということで、それ は物のイメージ(像)だけでなく、色、調子、快・不快の感情、美や滑稽、崇高をも含め、なん らかのものをそこに感じるということである。経験と記憶に残された素材としての像は有限 であっても、ものの見方、感じ方の多様を身につければ、さまざまなバリエーションが生ま れ感性の世界は広がる。そして、これらすべてを含めた総体をフィードラーは「能力」と言っ たのではないだろうか。
 私はこれまで、壁のしみを見る楽しみを、あまり他人に話したことがない。「そんな子ども じみたことを」と一笑に付されるように思っていたからであり、さまざまな価値観が加速しつ つ交錯する現代において、取るに足りないことと思ってもいたからである。しかし、テキスト を読み進めるにつれ、この楽しみが大きな意味をもつものであったことに気づいた。詳細 に分析することによって、実にさまざまなことがわかった。従来の「美学」の枠組みでは、こ のような体験はできなかっただろう。
 以上のことから、私は次のように考える。Aestheticsを「感性論」として考察し直すことの 最大の重要性は、美的なものを感じる悦びを既存の価値観や社会通念といったものから 解放することにあるのではないだろうか。                     2003.6.10
                 
     《参考文献》 
 岩城見一 『美学概論―感性論としての美学の今日的課題―』
                            (京都造形芸術大学、2001年)

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