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《初期キリスト教文化におけるイメージのあり方を、
偶像破壊運動にふれつつ論じなさい》
初期キリスト教文化におけるイメージのあり方は、ビザンティン帝国におけるイコン信仰
を考察することで、多くを知ることができる。313年のキリスト教公認後に成立したビザンテ
ィン帝国は、史上初のキリスト教国家であった。崇拝の対象としてのイコンの成立時期は
明確にされてはいないが、古代ローマ末期の神格化された皇帝の肖像画や奉献像などの
伝統と、初期キリスト教徒の聖遺物崇拝の思想が結びついたものではないかと考えられて
いる。
ここにおいて早くも、イコンのもつイメージの特異性が見えてくるのではないか。神格化さ
れた皇帝の肖像画や奉献像、および聖遺物に共通するものは何であろう。それは見るも
のにとって、それらの表しているものにではなく、そのもの自体に直接的な価値があるとい
うことではないだろうか。そこにある見る者と見られるものとの関係は、単なる視覚的な鑑
賞ではない。見る者からの積極的な関与、救われる予兆を何かの形で見たいという希求
が民間信仰となっていく。イコンも同様である。このように、見る側が発する強い力とからみ
合って、イコンは神や聖なるものの単なる描写ではなく、それ自体が神性を備えるもの、神
の力を分有するものとなったのではないだろうか。
イメージとは作られるものでもあり、また求められるものでもある。初期キリスト教文化に
おけるイメージは、この二つの要素のバランスのうえに出発し、やがて規範として必要不可
欠のものとなってゆくあり方だったのではないだろうか。ここにおいてイメージとは、不可視
のものを目に見えるようにするばかりか、見るものに視覚的ではない他の属性の存在をも
信じさせる強い力をもっていた。
そして反対に、このイメージのもつ強い力を危惧する人々もまた存在して、偶像破壊運動
の歴史は繰り返されたのではないだろうか。313年以降、聖人の画像表現は慣習となり、
新プラトン主義思想に支えられもして公認されていたが、一方では偶像崇拝を禁じるモー
ゼの十戒第二項が厳然と存在していたのである。ビザンティン帝国におけるイコノクラスム
は、神学的、政治的、さまざまな原因が考察されている。しかし、テキストの「原罪にもとづ
く肉体の忌避と、その肉体の働きである人間の視覚にたいする不信」という記述は特に興
味深い。なぜなら、それは、その後のイコン制作における厳格な規定の本質的な意味を示
唆するからである。
すなわち、「正面を見つめ、表情がなく、不動・不変であり、影のない」姿、「抽象化され、
画一的で、平面的な」模範的イコンの聖人たちの姿は、人間の肉体的視覚にたいする不
信のうえに成り立つものであった。そもそも信仰とは、肉体の目で見ることをやめ、心の目
に切り替えることからはじまるものなのだと思う。見る、知る、判断するなどの前に、信じる
ということを断固として置く精神的行為とは、そのような厳しいものなのではないだろうか。
そして、このように相反する信仰と視覚的イメージを両立させるためにとられた策が、イコ
ンを「見えるものに似てはならない」として描くことであった。イコンの「厚みのない、画一的
なイメージ」は、「無時間的な永遠性を有し、あらゆる肉体的表象から自由な、神の国にふ
さわしい姿」を視覚化したものなのである。
「見えるものにいかに似せるか」を追求したヨーロッパ美術に慣れ親しんだ私たちには、
この初期キリスト教文化におけるイコンの規範は大きな矛盾に思われる。そしてまた、遠
近法や明暗法に価値を見出す観点からも抜け出し難い。しかし、例えばキリシタン迫害時
代の「踏み絵」を思い起こせば、イメージの価値が現代と全く違ったところにある状況を理
解できるだろう。「踏み絵」においても、イコン同様それ自体が聖性をもつと信じられたから
こそ、信者たちは踏むことができなかったのである。イコンも踏み絵も、対象を如何に表し
たかは問われない。表象自体が、対象そのものと同じ存在になるところに価値があるの
だ。
このようにして、ビザンティン美術において視覚的イメージは、信仰と共存したばかりか、
そのなかで明確な役割を担った。初期キリスト教文化におけるイメージのあり方の最大の
特異性とは、その価値が、人間の肉体的な視覚を超越したところにあったことと言えるの
ではないだろうか。
《参考文献》
野口栄子・松原哲哉『ヨーロッパ美術史』テキスト(京都造形芸術大学、1998年)
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