『作品体験の時間・空間は、日常の時間・空間とは全く異質である』
この命題の是非について賛成と反対の両方の立場からバランスのとれた議論を
展開した上で、最終的にあなた自身の立場を説得的に表明しなさい



 ある美術作品に強く惹きつけられたとき、突然周りの空間から切り離されたように感じる ことがある。また映画鑑賞や読書において、その物語世界に引き込まれている最中は、現 実の状況や日常の自分というものは遠くへ追いやられている。そのようなときは、まさにテ キストにある記述通り、「もはや鑑賞する自分という特定の個人は忘れられ、鑑賞行為の 意志の上にいわば新たな人格が接ぎ木される」状態なのだ。まさしく、作品体験の時間・空 間は、日常の時間・空間とは全く異質である。
 一方、テキストでは次のことも指摘される。それは、「芸術作品を受容しているとき、われ われは自分の意志を確保している」ことであり、続いて「絵画を見ている最中に、日常的な 出来事を思い出し、それを気にすることもできれば、それにもかかわらず再び絵画に没頭 することも可能」であると述べられている。
 確かにその通りである。作品体験は、日常と明確に切り離された状況でなければ不可能 ということはないのだ。子供の安全を気にかける、決まった時刻に食事の準備をするなど の日常と同時進行で、造形芸術や時間芸術を受容することは充分可能である。また、日 常を現実ととらえるならば、作品体験はその中の雑多な出来事のひとつと考えられる。ここ においては、作品体験の時間・空間は、日常の時間・空間の延長上にあると考えられ、両 者が全く異質であるとは言えない。
 両者の時間と空間とは切り離されたものなのか、そうではないのか。どちらも正しいよう にも思われる。そこでもう一度、「日常」と「作品体験」という言葉から考えてみたい。
 日常とは何であるか。日常とは普段、あるいはいつもという意味で、特別な行事や出来 事ではない時空間のことである。
 では、作品体験とはどのようなものか。作品体験とは、一般的には芸術作品を受容、鑑 賞する体験のことを言うが、芸術において創造と受容は決して相対立するものではない。 作品体験とは、表現と美的判断が融合した精神と身体の体験であると言えると思う。
 私には、自分がある作品に強く惹きつけられた時の精神状態と、自分の作品が思惑通り 若しくはそれ以上の仕上がりに近づいた時の精神状態とは共通のものに思われる。どちら も身体的な興奮状態を伴う直接的な悦びであり、自分と作品の一対一の関係において生 じる快の感情である。それは他者とは無関係な内面的なものである。
 これに対し、多くの場合、日常とは他者と無関係ではいられない。また、日常とは次のよ うにも考えられる。人間の置かれる状況は一人一人違うものであるから、個々人にとって の日常もそれぞれ別個のものではある。しかし、それでも日常という言葉は普遍的に共有 されているかのように使われ、そこには社会という共同体の視点が浮かび上がる。社会と は、不特定多数の人間が縦横無尽に関わり合いながら時空間を共有しているものであり、 多様な人間が日常を送るために、そこには有形無形の様々なルールや共通意識に基づ いた暗黙の了解が存在している。このように、日常とは道徳や社会通念といったものに保 障されているものであり、反面、私たちは日常においてさまざまな規制を受けているとも言 えるのである。
 以前、青少年の逸脱を「終わりなき日常」という言葉で説明した社会学者がいたが、日常 とはそのようにネガティブな要素ももつ。人間の意志というより、義務や反復という言葉が 連想される日常というものには、個人としての本来の自分を埋没させてしまう作用がある。 私自身、日常においては母や主婦としての社会的役割の方が大きく、時として本当の自分 が置き忘れられ、社会から見られた自分の外形だけが一人歩きをしているような疎外感を 覚えることがある。
 芸術とは、そうした現実や日常から引き起こされる、根源的な疎外感から人間を守ってく れるものだとも思うのだ。創造と鑑賞のどちらの立場においても、作品世界の空間に引き 込まれる体験は絶対的な悦びであり、自分が真に生きているという実感を味わわせてくれ るものでもある。「芸術作品は、われわれにとって本来的な人格、われわれが本来そうあ るべき人格を生きさせてくれるもの」というテキストの記述通り、作品体験とは魂の生まれ 故郷に帰る体験ともなる。それはやすらぎばかりではなく、反対にかき乱されるものでもあ るのだ。
 テキストでは芸術と催眠術が比較されるが、私は芸術が睡眠中の夢に似ていると思う。 どれほど突拍子もない夢の中においても、人間は本当の意味で自分が誰であるかは忘れ ていない。夢の中では、たいてい現在の自分の役割を忘れているだけなのだ。その異質 性が時間的なものであることにおいても、夢と芸術は相通じている。
 夢と芸術のはたらきに共通性を見出すことから、私は、作品体験の時間・空間は、日常 の時間・空間とは全く異質であると思う。そしてまた、全く異質である時空間が生まれるほ どの力をもって、芸術というものに相対したいと思うのである。
2002.12.8 
《参考文献》  上村博『芸術学特講』(京都造形芸術大学・1998年)

レポート☆目次に戻る