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《芸術における複製のもつ意味》
私たちは現在、複製技術に取り囲まれて生きていると言っても過言ではない。今日では
写真映像を含む平面イメージは、どのようなものであれ、街のコンビニエンスストアに入れ
ば、誰でも小銭と引き換えに立派な複製を手に入れることができる。また、音楽CDはもち
ろん、好きな映画や芝居、ダンス公演なども、ビデオやDVDでいつでも何度でも鑑賞するこ
とが出来る。それどころか、技術の多様性と一般への普及においてめざましい発展を続け
るコンピューターの、その画面上では今や、マウスをクリックする私たち自身の指から、文
字や画像の複製が生まれ無限に増殖してゆくのである。
いつでも、誰でも、どんなものでも、そして何度でも、という自由と無限性を追求して複製
技術は進歩発展してきたと言えるだろう。西村清和は『現代アートの哲学』のなかで次のよ
うに書いている。「・・現代の機械的複製技術は、従来貴族や裕福なブルジョアにのみ近づ
くことが許されていた古典的な芸術を、一般大衆にも接近可能なものとしただけではない。
媒体としてなにものをも平等にうけいれるという、メディアほんらいの性質によって、そこで
はそもそも高級と低級、芸術とキッチュ、ほんものとにせものといった区別そのものが無効
にされる。複製メディアこそは、われわれの大衆文化の空間を満たす媒質なのである。(注
1)」
この言葉は、複製技術のもつ明と暗の両面を暗示している。確かに現代の私たちは、い
つの時代のどこの誰の作品であろうと、何らかのかたちで知ることが出来る。私たちは意
識することもなく、それを当然として日々を送っているが、歴史的に見ればこれは画期的な
ことなのである。しかし私たちは、複製技術から恩恵を受けているばかりではないのかもし
れない。技術の進歩の脅威はその浸透の素早さにあり、出現当時に驚異と賛嘆の目で見
られた新しい技術も、またたく間に当然の存在となるのだ。また、ひとつの新しい技術が出
現した後に生まれた世代にとっては、その技術はもはや自然の一部であり、彼等の知覚
や感情はその環境に合わせて発達するのではないだろうか。かつてテレビがそうであった
ように、今やコンピューターが当然の存在になりつつある現代において、私たちのさまざま
な価値観や知覚様態は、すでに変化させられてしまっているのではないか。
『複製技術時代の芸術作品』のなかでヴァルター・ベンヤミンは、複製技術が芸術に及ぼ
したものとして、「アウラの消滅」ということを言っている。「アウラ」とは、その作品がいま、
ここに、一回的にあるという性質で、それはどんな完璧な複製においても欠けているものだ
と説明される。しかし、彼が複製技術の初期のものとして挙げている鋳造と刻印、そして木
版から石版画に至る手法は、現代のテクノロジー社会から見れば、充分にアウラを残して
いるように思われる。その理由は、当時は無数に反復され存在したものが、長い時を経て
一回性を獲得したということではない。それらの像やコインや版画が作られる過程の多く
が、人間の手による技に負っていたということが大きな理由である。技術とは言っても、人
間の能力による技術と、機械の性能に多くを負う技術とは、全く別物と言えるのではないだ
ろうか。
ここで、もう一度原点に戻り、芸術と複製の関わりについてまとめてみたい。複製には
大きく分けて二つの意味がある。ひとつは、あるオリジナル作品があってそれをコピーする
という意味での複製であり、もうひとつは写真や版画のようにはじめから複数の同一作品
が作られることを前提にするもの、いわばオリジナルとコピーの差がないものである。
テキストで触れられているもののうち、ギリシャ彫刻のローマン・コピーと、ヴァトーの油彩
画を版画で複製したものは前者の意味でコピーである。この他にも、工房において、習作
のために弟子たちが師匠の作品を模写したもの、または画家自身がもとめに応じて自分
の作品のコピーを描いたものなどもそうである。また、現代においては画集やポストカー
ド、展覧会に行けば必ず目にするさまざまなミュージアム・グッズなども、オリジナルあって
のコピーである。
これに対して、テキストにあるデューラーの時代の版画、また、ビアズリーが活動した場で
あった本や雑誌の挿絵、広告媒体として新しく登場したポスターなどのグラフィックの領域
は後者である。こちらは原版にもとづく同一作品の複数制作という意味での複製であり、石
膏原型をもとにして鋳造の他さまざまな素材で作られる彫刻もそうである。19世紀半ばに
発明された写真や、その少し後に生まれた映画、録音技術などもこちらに入り、そして現
代のコンピューターグラフィックもまた、原版としてのデータファイルをもつのみで、原作と模
作の区別はないのである。
このように二つの意味において、複製はますます私たちの日常に増殖しているのである
が、それらによるネガティブな影響としては、どのようなことが挙げられるだろうか。
まず、おびただしい複製品が情報の過多となり、そのひとつひとつに真摯に向き合う時間
的余裕がない。また、複製された作品のなかでさえ全体を把握することは到底無理な状態
なので、複製されていないものはもはや存在しないも同然になってしまう。その上、複製な
らいつでもまた見ることが出来るという安心感から意識が散漫となり、ものを見ることに集
中するためには努力や動機を要する。これらは自分の反省でもある。
また、私はベンヤミンの言う、失われた「アウラ」が実際はどのようなものかを永く考えて
いたが、先日、京都国立博物館で大きな仏像ばかり集めた部屋に入っていった時に、実
感として思い当たった。それは高さ3メートルから4メートルの仏像がさまざまなポーズで1
0体余り並ぶ暗い空間だったのだが、思わず鳥肌が立つような感覚は、ひとえに仏像たち
の独自の大きさによるものだったのだ。その時、この独特の大きさは写真に撮れば消えて
しまうことに思い至り、私はこの大きさというものにおいて、いま、この場に立ち会っている
ことを実感した次第である。
また、今年行った「マグリット展」や「レンブラント展」でも、複製に関して戸惑いを覚えた。
実際の作品を観るべき会場そのものが、無数に増殖したミュージアム・グッズという複製イ
メージで取り囲まれているのである。まずオリジナルが存在して、次にその複製があるとい
う順序が逆転したような印象を覚えたのである。ベンヤミンは、複製技術のおかげで古い
芸術作品の礼拝的価値が失われ、新しく展示的価値が生まれたと言っているが、近年の
有名な展覧会はみな、コピーですでに知っている作品のオリジナルをわざわざ見に行くと
いう礼拝的価値を感じてしまう面をもつ。
これら複製技術のもつネガティブな面への対処はいかにするべきか。まず情報過多に対
するためには、現在の自分にとって意味のある作品を探り当てる嗅覚のようなものをもつ
ことではないだろうか。また、他者の言動に左右されない、独自の確固たる美意識や判断
力を身につけることも重要である。
ベンヤミンは『写真小史』のなかで、「絵とか、とりわけ彫刻とか、いわんや建築は、実際
に見るよりも写真で見たほうが理解しやすい」と指摘し、「機械的複製を行なうもろもろの方
法は、つまるところ縮小技術であり、その助けを借りて人間は、作品を充分使いこなせるく
らいに、手中に収めることができるのである(注2)」と述べている。
また、西村清和は「われわれの美的経験の多くは、レコードやCD、写真複製をつうじて、
もちろんそれらがコピーであることを承知でなされる」ものであることを指摘するが、続けて
「すくなくともわれわれが意図的にこれをオリジナルの代用と見、オリジナルのクラスに属
するものとして味わうかぎり、これによってわれわれは、オリジナルそのものから得られる
のとおなじ経験をすることができる(注3)」と述べる。
コンピューター技術のますます浸透する現代において、自分の感覚を信頼しながら複製
技術をポジティブに使いこなしていくことが、私たち人間にとっても、また芸術にとっても求
められているのではないだろうか。 (以上、3323字。400字詰め換算8枚余)
<参考文献>
ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎訳『ベンヤミン・コレクション1』筑摩書房、1995年。
西村清和著『現代アートの哲学』産業図書、1995年。
<注>
(注1)西村清和『現代アートの哲学』161〜162頁。
(注2)ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション1』575頁。
(注3)西村清和『現代アートの哲学』63〜64頁。
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