《ジョエル=ピーター・ウィトキンの写真作品における距離の考察》




 写真というジャンルが語られるとき、絵画との比較が挙げられることが多い。「絵画は人 間の手による描写だが、写真は自然そのものによる刻印だ」というものである。写真とい うメディアをこのようにとらえた場合、ジョエル=ピーター・ウィトキンの写真作品は、その ジャンル内において早くも逸脱している。なぜならウィトキン作品は、自然な時間のある 一瞬を切り取ったものではなく、あらかじめ構想された絵コンテに沿って用意周到に作り 上げられたものだからである。この表現手法は、「撮る」写真に対して「作る」写真という意 味で、メイキング・フォト、あるいはコンストラクテッド・フォトと呼ばれ、80年代以降、ひと つのスタイルとして認知されている。
 しかし、ウィトキン作品における逸脱はこれだけではない。美的に、あるいは道徳的に、 作品においてウィトキンは、さまざまな逸脱を試みている。
 テキストでは、ものを美的に見ることの根底には必ず何らかの距離が存在することが 指摘されている。この美的な距離とは、「特有の調子、非日常の感覚、離卿(デペイズマ ン)の感情(注1)」を生むものとして、芸術表現の受容に貢献する。それはまた、日常から のずれや逸脱としての距離と捉えることができる。その距離は、受容する者の身体を基 点として発生する距離でもあるが、同時にこれは、制作において戦略的に作り出すこと ができるものでもある。では、ウィトキン作品において作り出され、それを見る者によって 感受される距離とは、いったいどのようなものであるのか。
 ウィトキン作品に接した者が第一に衝撃を受けるのは、まず何と言ってもそこに写され た被写体であろう。ウィトキンはモデルとして、社会から何らかの逸脱をしている者を選 ぶ。異常に肥満した女性や、いわゆるフリークスと呼ばれる人々、また、自ら選んで両性 具有の身体をもつ人々などである。まず、ここにひとつの距離が存在する。それは、正常 と異常という社会的な枠組みから派生し、そのまま美と醜という別の価値の対立概念へ と横滑りする距離である。 スーザン・ソンタグは『写真論』のなかで、「だれもかつて写真 を通して<醜>を発見したものはなく、多くは写真を通して<美>を発見してきた(注2)」と指 摘している。わざわざ絵に描いたり写真に撮ったりするのであるから、作品に表現された ものは美しいものであるはずだ、という社会通念が存在するのである。
 それと同時に、異常なものは社会においては隠蔽される、という通念も存在する。飯沢 耕太郎は云う。「あらかじめ定められた道徳や規範を身にまとうことで、かろうじて機能し ているぼくたちの社会では、これらのイメージはまさに不吉な、禍々しい異物として、意識 の奥底に押しこめられてきた。(注3)」
 このように、芸術作品とは美しく正常なものである、という社会通念が確かに存在する。 ウィトキン作品を見ることによって、これらの暗黙の了解を根底から覆された鑑賞者は、 そこに大きな距離を感じることになるのである。
 しかしこの距離は、ウィトキンが作品化したことにより美的な距離として成立している。 多くの者がそこから受けるであろうグロテスクという印象について、西村清和は次のよう に書いている。
 「一歩まちがえば自分もこのような異形のものでありえたかも知れないという思いは、 最初の一瞥におぞましさや嫌悪をもたらすかも知れない。だが暗闇に慣れるように、これ らのイメージにしだいに目がなじんでくるにつれて、人間というもの、自然というものがとり うる予想をはるかにこえた多彩で異様な形態のスペクタクルに圧倒されてしまう。グロテ スクの魅惑とはおそらく、転倒した崇高であり、いわば<博物学的崇高>とでも呼ぶべき 感覚である。(注4)」
 この記述は、医学の症例標本写真についてされたものである。たしかに、グロテスクと いう印象に潜む、恐れながらも魅惑されるというアンビバレントな感情は、崇高な印象に 喚起される感情とたいへん近いものである。
 現代社会は、いわゆる「美しい」イメージに満ち溢れている。均整の取れた身体をもつ 欧米女性のモデルや、商業イメージに取り込まれた西洋美術などを目にしない日はない と言ってもよい。しかし、消費と融合したこれらの「美しい」イメージは完全に日常と化して いるので、内容とはうらはらに、そこに美的な距離を感じることはできないのだ。
 ウィトキンは、この美的な距離の気難しさを十分理解している作家である。19世紀の医 学症例写真に魅せられ、その写真集を編集してもいるウィトキンは、それらから感受した 美的距離を、自らの作品の手本にしたのではないだろうか
 そしてまた、「正常ではない身体」という被写体の他にも、19世紀の医学写真からウィト キンが手本にしたものがある。それは時間的な距離と言えるかもしれない。ウィトキンは モノクロ画像にこだわり、それだけでなく撮影したネガにきずをつけるのである。ところど ころ微かにセピアがかり、しみやすりきずが飛び交う作品は、症例写真の多くがそうであ ったようなアノニマスな雰囲気をもつ。ウィトキンの作品は、いつの時代に誰によって取ら れたのかわからない典拠不明の映像を真似ている。そこには、確かに意図的に、時間と いう美的な距離が付け加えられている。
 しかし視点を変えれば、写真という表現媒体は、もともと時間的距離の可能性をもつも のなのである。スーザン・ソンタグは次のように云う。
 「写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる。醜悪な 被写体もグロテスクなものも、写真家の注意で威厳を与えられたために感動を呼ぶもの になる。美しい被写体も年とり、朽ちて、今は存在しないがために、哀愁の対象となるの である。写真はすべて死を連想させるもの(メメントモリ)である。写真を撮ることは他人の (あるいは物の)死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間 を薄切りにして凍らせることによって、すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言して いるのである。(注5)」 
 ソンタグは、写真が根本的にもつ時間的距離とは死に深く関わるものだということを指 摘している。そしてまた、ウィトキンが作品表現において生み出そうとする時間的距離の 究極にも、「死」がある。ウィトキン作品のなかでも特に物議をかもす一連の作品、死者 の身体やその一部を被写体としたものには、「死」への積極的な関与が顕著である。
 その画像がもつ絶対的な時間的距離は、いわば取り返しがつかないという感じである。 しかしそのこと以前に、ここでは、死者の身体を撮影することのタブーという社会通念に 囚われた私たちへの、ある種の攻撃が感じられるのだ。見る側の私たちの身体へ直接 向けた、見せる暴力という感がどうしてもぬぐえないのである。これは実際には、ウィトキ ン自身の意図とは無関係かもしれない。また、これが描かれた絵であれば、これほどの 暴力性はもたなかったであろう。この暴力性もまた、日常からの逸脱という意味において 距離ととらえることができる。この、直接こちら側へ向かってくる距離というものは、やは り「自然の刻印」である写真がもつ独自のものなのではないだろうか。
 「正常」な日常に対する「異常」という距離、「美しい」ものを理想とする社会に対する 「醜」あるいは「グロテスク」という距離、そして古色を付け加える時間的な距離、またそれ らの究極で暴力性へと転換する距離・・。ウィトキンが作品において生み出す距離は他に も挙げられる。それは、虚構性の強調といったものであり、美術史上の有名作品を引用 したもののなかに強く現れている。引用を使った作品では、1987年、スペイン文化相の依 頼により制作された『ラス・メニーナス』が知られている。ウィトキンの引用のしかたは、原 画に描かれた主要人物とおおまかな構図の設定のみをなぞるもので、実際に表現され るものは独自の解釈による変容である。視覚的な再現性を重視するものではない。
 先行作品をなぞるという表現手法は、写真においては森村泰昌の「美術史の娘たち」 シリーズが知られている。森村とウィトキンとの大きな違いは、森村が自分自身の身体を 使うのに対して、ウィトキンは他者の身体をあてはめるという点である。森村は、一枚の 絵のなかの複数人物を表現する際にも、合成によりすべて作家自身の身体と顔を使うこ とに執着する。一方ウィトキンは、その位置に前述の「逸脱者」たちの身体をあてはめる のである。鑑賞者の身体に作家自身の身体が対峙する関係と、そこに第三者の身体が 介在する関係という差異が、両者にはある。しかし、各自のスタイルへの確信とともに両 者に共通するのは、生身の身体で表わされたゆえの強い虚構性、現実からの乖離、ず れといったものである。ウィトキンと森村泰昌がともに、作品構想に何枚ものデッサンを 描き、使用する背景や小道具の準備に入念に時間をかけながらも、最後には一瞬のシ ャッターで決定する写真という表現媒体にこだわることの理由はここにあると言えるので はないだろうか。「絵画や散文で描いたものは取捨選択した解釈以外のものではありえ ないが、写真は取捨選択した透かし絵として扱うことができる。(注6)」というスーザン・ソ ンタグの指摘は、写真という表現メディアがもつ多面的な受動性、表現への広範な応用 の可能性を示唆する。 
 これまで見たように、ジョエル=ピーター・ウィトキンの写真作品は、さまざまな位相の 距離をもつ。グロテスク、アノニマス、道徳的逸脱、暴力性、虚構性など、これらの距離 はお互いに付け足され屈折しながら、鑑賞者の身体からの距離を伸ばしてゆく。
 しかし重要なことは、ウィトキンによるこれらの距離の創造は、決して距離そのものが 目的ではないということである。それはあくまで、作品を、ウィトキン自身の確固たる美の 理想に近づけた結果のものなのである。彼の作品表現は、決して見るものに衝撃や異 質感を与えることが目的なのではない。ウィトキンの目的のひとつは、美の可能性の探 究、あるいは美的なるものがもつ力の発見、というべきものだったのではないだろうか。
                    
                    
                    
                 《参考文献》
        スーザン・ソンタグ『写真論』(近藤耕人訳・晶文社・1979年)
        飯沢耕太郎『写真の力 増補新版』(白水社・1995年)
        西村清和『視線の物語・写真の哲学』(講談社選書メチエ・1997年)

                   《注》
        (注1) 上村博『芸術学特講』(京都造形芸術大学・1998年)161頁
        (注2) ソンタグ『写真論』 91頁
        (注3) 飯沢『写真の力 増補新版』 10頁
        (注4) 西村『視線の物語・写真の哲学』 175頁
        (注5) ソンタグ『写真論』 23頁
        (注6) ソンタグ『写真論』 13頁
        
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