《ジョエル・ピーター=ウィトキンの写真作品にまつわる
                  道徳的価値観についての考察》


‘90年代のはじめに、ジョエル・ピーター=ウィトキンの写真作品に初めて接したときの 衝撃は、身体的な体験ともいうべき強度をもつものであった。そのときの印象を言葉にす るならば、ウィトキンの作品は、まず、それまでに経験したことのないもの、その時点で知 っていた他の何ものにも似ていないものであった。そしてその印象は、これは私にとって の美であるという確信の上にあったのである。しかし、これほど直感的に自分の身体ごと 惹きつけられるものに出会えたという悦びは、同時に感じざるを得ない一抹の不安感や 後ろめたさとともにあったのだ。
 それ以前にも、作品との衝撃的な出会いは存在した。それまで経験したことのない美 の領域に、足を踏み入れた記憶もいくつかある。しかし、例えば‘87年に初めて観たブラ ザーズ・クェイの『ストリート・オブ・クロコダイル』の人形アニメーション映像は、後ろめた さなどというものとは無縁であった。それは、自分がその作品の世界から「呼ばれた」とい う確信であり、100パーセントの悦びだったのである。では、ウィトキン作品にのみ付随し てくる後ろめたさの正体は何か。それは、作品を鑑賞する際の単なる邪念、私の至らな さによるものなのだろうか。
 テキスト第三章第二節の「催眠術と芸術」の論点に、この疑問に対する鍵のひとつがあ ると思われた。ここでは、「われわれが芸術作品を芸術作品として鑑賞を始めること」が 指摘されている。またそれに続いて、「芸術作品を受容しているとき、われわれは自分の 意志を確保している」ことと、「作品が鑑賞されているかぎりは、われわれの意志は放棄 されている」ことという、一見矛盾する記述がなされている。しかし、これらは両方とも真 実である。これらこそ、ウィトキン作品を初めて受容した頃に、私が苛まれた両極性なの である。
 ウィトキン作品を鑑賞する際に感じる後ろめたさの原因は、主にその被写体にある。作 品に惹きつけられ、その世界から「呼ばれた」ことを直観し、そこに確かに強い美の力を 認めながらも、「しかしこれは赦される行為なのか」という一抹の不安が存在する。それ ゆえ、そこに美的な悦びを見出すことに後ろめたさを覚えるのだ。これは例えるなら、道 徳的価値観が邪魔をして、美的判断が自由に振る舞えない状態と言えるのではないだ ろうか。
 ウィトキン作品における「これは赦される行為なのか」という不安のもととなる要素とし て、「身体的あるいは性的な逸脱者を被写体としたもの」、「過度に性的かつ暴力的な表 現であるもの」、「屍体やその一部を被写体としたもの」などが挙げられるであろう(注1)。
 ここで注意しなければいけないのは、これらは決して主題として不安を喚起しているの ではないことである。なぜなら主題としての逸脱者や死者や暴力は、人間の普遍的な関 心や畏怖の対象として、美術史の伝統のなかに広く見出せるものだからである。ボッシュ やカラヴァッジオを観るとき、私の心にほんの少しでも後ろめたさが浮かぶだろうか。そ れはないと断言できる。ドラクロワの虐殺の描写にしても、中世の墓に彫られたトランジ にしても、そこに感じるのは真実味の再現力への賛嘆の念であり、また、歴史や死を含 む人間存在への厳かな気持ちである。
 以上で明らかになったのは次のことである。ウィトキン作品にまつわる後ろめたさとは、 何よりもそれが写真作品だということに起因している。では、それは何故か。この問題に ついて、西村清和は『現代アートの哲学』のなかで以下のように論じている。
 「…絵画のばあい、われわれはまずは、そこに描かれた視覚デザインの構成や配色の 妙、そこに満ちているあるふんいき等に注目し、これを美的に楽しむ。だが写真に対して は、そこに写っている人物や風景、できごとが、まさにそのままに実在したという事実に、 われわれの意識は完全にとらえられる。われわれのまなざしは、写真イメージの<描写 >の表面にとどまることなく、同時にそれが指示する現実へとむかう。バルトが、<写真 がもたらす意識のタイプはまったく先例がない>といい、写真を<人類的革命>と呼ぶ のも、このためである。(注2)」
 ここでは主題が同じものであっても、絵画と写真では私たちのまなざしや意識の焦点に 差異が生じることが指摘されている。ウィトキン作品を観ることによって、私はそこに死者 や暴力のイメージの描写のみでなく、屍体そのものや暴力行為そのものも見てしまうの である。考えてみれば、この写真というメディアのもつ特異な力は、ウィトキン自身が誰よ りも承知しているものかもしれない。モノクロ表現、ネガを傷つけ古色を帯びさせるなどの 操作は、美的距離を付け加えるだけでなく、写真のもつ直接性を軽減させる手段でもあ るだろう。ウィトキンは、写真という表現手段に「描写」の要素を可能なかぎり付加したか ったのではないだろうか。
 いずれにせよ、その作品から引き起こされる不安感のうち、死や狂気、潜在的暴力と いう人間存在の暗い面への根源的な恐れは、ここでは問題とされていない。これらこそ は、自らの仕事を「見えないものを見えるようにすること」だというウィトキンのまさしく狙っ たものなのであり、それらを見て取ったからこそ、私は強い力で惹きつけられたのであ る。
 ここで問題とされている不安感とは、「芸術表現を目的とする行為」が現実世界と作品 世界の両方にまたがる曖昧なものであることからくるのである。作品世界は現実や日常 から明確に切り離されたものであるが、それを作る行為はやはり現実世界に含まれる。 作る過程の行為自体は、現実の社会通念や倫理道徳の影響下にあるのだ。作品が過 去の時代のものでなく、同時代の作者によって作られたものであれば、この問題は深刻 である。この問題が作る側だけでなく、鑑賞する側にも関わるからだ。ある作品に強く惹 かれることは、その作品を肯定することにつながり、それはその作者への一時的な精神 的連帯責任を負うことにもなると私は考える。私の究極の不安感は、ウィトキンの「死者 の身体を表現の素材に使用する」行為にあるのだが、それらの作品に美を認めること が、倫理に反することに自分が加担していることになるのではないかという思いが、不安 や後ろめたさの正体だったのである。
 ウィトキンは20代前半の頃に、カメラマンとしてのベトナム従軍体験をもつ。作戦の失 敗による死や、憂鬱から自殺した兵士の死の記録写真を撮ることが任務だったというウ ィトキンの体験を知ることは、少なくとも彼の行為が単なる思いつきや露悪趣味のうえに あるものではなく、葛藤と、真摯な姿勢のうえに立つものだという了解につながった。しか し、例えばウィトキンの“Glassman,1994”のような作品に対峙したとき、このウィトキンの 体験が「死者の身体を(本人の)了解なしに自分の作品表現に使用する」という行為の正 当性をも証明するだろうか、という疑問がわくのである。この疑問に対する答えは、私自 身の芸術観と死生観にのみ隠されているのかもしれない。蔦谷典子によるウィトキン評 の一説を次に挙げる。
 「ウィトキンは、偏執狂的な肉体への固執と、真摯で正統な芸術追究によって解され る。(…)それが神の創造物である神聖なる実際の肉片であり、人間であるため、異様な リアリティをもち、しばしばセンセーショナルに扱われ過ぎるが、正当な表現者である。異 常なのは、肉体に対して冷徹な医者のようになれることである。(注3)」この記述は、ウィ トキン作品と出会ってから10年を経ても解消されない葛藤を考察し続けることへの勇気 づけと、新たな視点を与えてくれるものである。
 一方、スーザン・ソンタグがアーバス論のなかで述べている次の一説は、これらの問題 を全く別の視点から見据えている。
 「…近代芸術の多くは不愉快なものの敷居を低くすることに熱心である。あまりにショッ キングだったり、痛ましかったり、当惑させたりで、以前は見聞きするに耐えなかったもの に私たちを慣らすことによって、芸術は道徳?情緒や自然感情からいって、我慢できるも のとできないものとの間にあいまいな線を引く、あの精神の習慣と公衆の是認という代 物?を変えるのである。(…)しかし、映像と印刷で増大する一方のこのグロテスクなもの を、私たちが消化する能力をもつことは途方もなく高いものにつくのである。結局それは 自我の解放ではなく、自我からの控除、つまり恐ろしいものへのいいかげんな慣れが疎 外を助長し、現実生活に反応しにくくさせるのである。(注4)」
 ソンタグのシニカルな言葉は、慣れによる鈍麻という問題点を鋭く指摘する。ソンタグ は、アーバスやウィトキンのように日常から隠蔽されるものに焦点をあてる作品に対し て、作る側にも受容する側にも警告を発している。鈍麻とは、学習や理解の裏に潜む罠 のようなものではないだろうか。出会いの当初の強い衝撃や不安感が薄らいだことを、 ウィトキンと彼の芸術に対する理解が深まったからとするのは危険である。常に原点に 立ち返り、その時点での自分に問いかけ、その都度こたえを出していきたいと思う。
 
 美的判断と倫理的判断とを完全に分離させることは、総合的に現実を生きる人間とし ては不可能なことである。作る者の立場にたてば、シュルレアリスム運動にしても前衛演 劇にしても、そこには常にさまざまな形で、美的価値観と倫理的あるいは道徳的価値観 とのせめぎ合いが存在しただろうと思う。せめぎ合いは作り手の側だけでなく、享受する 側にもある。我を忘れて作品世界に浸るうちにも、社会的な自分を全て脱ぎ捨てている わけではないからだ。テキストの記述のように、芸術作品を鑑賞する際のわれわれの意 志は、確保されてもいるし放棄されてもいる。
 ウィトキン作品に対する葛藤は、これから先も続くだろう。しかし、さまざまな芸術表現 が氾濫する現代において、作品の美的側面だけでなく、その倫理的側面をも冷静に見極 め、作品との距離のとりかたを模索することは重要なことだと思うのである。
   



      《参考文献》
  西村清和『現代アートの哲学』(哲学教科書シリーズ・産業図書・1995年)
  多木浩二・大島洋編『世界の写真家101』(新書館・1997年)
  スーザン・ソンタグ『写真論』(近藤耕人訳・晶文社・1979年)

 
       《注》
(注1)ウィトキン作品を客観的に考えると、この他に「キリストを揶揄した表現」も問題
  的素として挙げられるが、日本人である私はこれについての罪悪感からは免れ
   ている。
(注2)西村清和『現代アートの哲学』244-245頁。
(注3)蔦谷典子「ウィトキン」(『世界の写真家101』)219頁。
(注4)スーザン・ソンタグ『写真論』48頁。
 
 
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