《舞踏についてのレポート》



 舞踏とは、私にとって何であるのか。
 芸術学基礎第五章を読み、舞踏について考察する良い機会を得たと思った。舞踏は長 い間自分にとって強い魅力をもつものであったが、現在は実際の舞台ではなく、専ら書物 と映像でのみ接している。私にとって舞踏とは何であるのか。舞踏そのものを考察するに は未熟であるが、自分の心と身体の記憶を手がかりに、自分が魅せられたその実体に少 しでも近づいてみたいと思う。
 舞踏は、第一に、私にとって直感的な魅力をもつものであった。それは視覚的、反射的 な魅力であり、「・・・だから好ましい」というような言語的な意味づけも、それにまつわる情 報も解説も必要としない、直接的、絶対的な魅力であった。実際に観たなかで一番印象に 残るものは、古川あんずという大駱駝艦出身の女性舞踏家の公演であるが、そこで受け た美的な衝撃は、舞台そのものの記憶が薄れた今でも鮮烈に憶えている。
 その衝撃を言葉で表現すれば、これまでに経験したことのない美、あるいは既存のどの ような枠組みにも当てはまらない美というような感覚であった。その衝撃とは、なにもので あったのか。
 これを追求するために、身体表現としての舞踏の特異性を考えてみたい。その方法とし ては、西洋のバレエと対比させることと、演劇と対比させることが考えられる。バレエとの 対比では、その根本が三浦雅士などの身体論によって論じられている。それによれば、 世界を大別した農耕文化と遊牧文化がそれぞれ舞いと踊りを生み、両者は身体所作の 体系に根本的な差異をもつというのである。
 「…舞いの特徴は、摺り足にナンバ、腰をしっかり据えてゆっくり動くこと。踊りの特徴 は、跳ぶこと、跳ねること、回ること、である。」(注1)
 ここでは、能とバレエが両者の代表として論じられているのだが、前者の舞いの特徴は そのまま舞踏、特に大駱駝艦や白桃房などの舞踏に通じるのである。腰をしっかり据え る、腰が決まるということは、私たち日本人にとって主観的にも客観的にも快の感情に結 びつくことなのだと思う。
 これに関連して重要なことは、舞踏の動作は自分にもなぞることができるという点であ る。技術においてもスピードにおいても、バレエの動作は特別な訓練を積んでいない身体 にはなぞることは不可能だ。三浦雅士の言うように、農耕民族の出自をもつ私たちの身 体は、基本的にバレエの動きが馴染まないこともあるだろう。これと逆のことも言えるので あって、欧米から舞踏を勉強しに来ている人たちが踊るのを見たこともあるが、すらりと伸 びた脚で腰を落とした動きをするのは難しそうに見えた。
 舞踏手の動きを、鑑賞しながら自分の身体でなぞることができるということはたいへん 重要なことではないだろうか。それは、その動作に込められた情念の断片を、言葉を介さ ずに受けとることができるということだからである。
 この「言葉を介さずに」という条件も、舞踏の魅力の大きな要素である。舞踏を頻繁に観 た1990年前後の私には、舞踏を演劇の代替品と捉えていた側面もあったように思う。当 時は、小劇団と呼ばれる若く理知的な力に溢れた劇団が多数あり、またシュルレアリスム 的な演劇空間を作り上げる人たちもいた。しかし、私はいつしかせりふを聞くことが苦痛 に感じられるようになっていたのである。
 思えば演劇空間とは、実に多くの要素の混合物である。舞台装置と照明が一体化し視 覚的要素となり、そこに人物が登場するところまではよい。しかし間髪を入れずにせりふ を聞き漏らさないように注意し、できるだけ早くその芝居のシチュエーションを読み取り、 そのなかに入り込まなければならないという仕事が待っているのである。また進行につれ て複数の人物間の関係性を追い、ひとりひとりの身体と別々の台詞回しを認識しながら 統合しストーリーを編み、同時に音響や照明効果とともにそのすべてを味わうとは、まこと に演劇鑑賞とは大変な作業と言えるのである。
 舞踏は、これらのなかの私にとって不必要な部分を、大幅に省略してくれるものであっ た。ストーリー、せりふ、人物の関係性などの要素は、いかに非現実の設定であったとし ても、それらの要素自体が現実の論理的な枠組みのうちに存在するのである。そして、そ れらの論理的な要素が多ければ多いほど、私が舞台という空間に一番欲するものが隠 れてしまう。そのものを、人間の普遍的な情念そのものの断片と呼びたい。
 例えば上述の古川あんずは背の小さい人で、少女、あるいは幼女と呼べるような踊りが 非常に上手であった。本人の踊る映像ビデオは所有していないので、まったくの記憶を記 述するしかないのだが、シンプルな装置と照明のなかで幼女が恥じらい、すねながら、や がて媚を売るような表情に変わるのを、私は奇跡を見るような感覚でそこに立ち会ったは ずである。一般的な演劇であれば、幼女がすねているシーンについては、必ず何らかの 理由付けがなされるだろう。そこに至るまでのストーリー展開に時間が費やされるか、あ るいは誰かのせりふによってその理由が語られるか、必ずといってよいほど幼女がすね ている状態は、そのままにはされないと思う。ところが実体としては、幼女は理由もわから ずすねるものでもあるのだ。人間は、個々の内面世界を不安定に漂うものでもあるのだ から、ひとつひとつの感情の動きに、その場に居合わせた他者全員の了解が得られると は、考えれば不気味な空間である。
 演劇空間よりも舞踏の空間に、より人間の真実に近いものを私は見たのではないか。 実物を目撃できなかったアスベスト館のスチール写真や、大野一雄などの踊る映像を観 てそう思う。舞踏は、孤独な人間の各々の内面世界を自由な時間が流れていることを了 解している。また舞踏は、物質的、社会的な必然性を駆逐し、人間の感情そのものの流 れに潜む論理を重んじ、直接的に提示する。哀しみ、恐れ、諦め、安堵、微笑み、高 揚・・。時代や社会がどれほど変わっても、これら人間の情念そのものは不変である。
 例えばむかし銭湯で、精神を病んでいる女性が恨み言のような独語を吐きながら、延々 と繰り返し身体を洗っている光景を見たことがあるが、舞踏とは私にとってそのようなもの なのかもしれない。物質的、社会的必然性の抜け落ちた情念そのものは、客観的には狂 気と呼ばれる。それは社会にとっては異常かもしれないが、個々の人間が生きていくうえ ではたいへん近しいものなのではないだろうか。単に狂気を真似たのではなく、舞踏手本 人の内なるリズムで感情が流れたとき、私はそこに生きるということの真実の一面を垣間 見たのだと思う。
 ここまで考えが及ぶと、舞踏療法はとても自然な流れに思われる。日常のなかで蓄積さ れて濃度を増したさまざまな想いや恐れの断片を、言葉による分析も解釈も省いて絵の ように、音楽のように直接身体で表出する体験は、浄化として、アリストテレスが悲劇に見 た役割を果たす。過去に舞踏のワークショップに参加した実体験からも、私はそう確信す るのである。
   
   
   
    《参考文献》
『身体の零度』三浦雅士著(講談社選書メチエ、1994年)
「芸術新潮3−土方巽特集号」(新潮社、1998年)
「夜想9号−暗黒舞踏」(ペヨトル工房、1983年)

    《参考ビデオ》
「大野一雄 Beauty and Strength」(NHKソフトウェア、2000年)
「陽だまり−例えばテアトロ・ダンス・グロテスク」
                 古川あんず演出(電視星組、制作年度不明)
 
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